どうも、カタカナことカタオカカナです。
いかがお過ごしでしょうか。
水曜日は芸能世界の考察。
やっと、やっと、やっと志村けんについて書く。
志村けんの訃報に接して
志村けんがこの世を去った。
突然のことで、日本中が驚きと悲しみに包まれた。
私ももちろんそのひとりで、訃報を聞いてから2日間泣き暮らした。
8時だよ全員集合から始まって、カトちゃんケンちゃんごきげんテレビ、だいじょうぶだぁ、ドリフ大爆笑、バカ殿・・・どれも大好きだったし、ケンちゃんラーメンを食べ続けて、ついにケンちゃんボールペンを当てたこともある。(いまは行方不明になってしまった)
失ってはじめて気づく、とはよくある言い回しだけれど、志村けんを失って、自分はいかに志村を深く愛していたかに気づかされたのだった。
志村が高齢者だと初めて気づいた
コメカさんが文春コラムの中で、「志村けんというキャラクターの突然の消失を、人々がうまく受け止められていないことに起因している部分が大きい」のではないかと提言されている。
確かにその通りだ。
罹患を知らされてから亡くなるまでの期間が短すぎて、事実を受け止められていない。
私は美輪明宏様のファンを20年やっているが、「まさか」の日に備えるための20年であったともいえる。
ファンになった時点で美輪様は60歳オーバーであったから、いつも「まさか」を視野に入れて活動を見守っているし、毎年の舞台も「これが見納めかも・・・」と毎回毎回思っている。
80歳を越えられたこともあり、いまこの瞬間に「まさか」がやってきても心静かに受け止めることができるだろう。
だか美輪様と違い、志村けんはトーク番組やバラエティに出演することが極端に少なかったため、私生活が謎に包まれている。
周囲の人々(最近なら千鳥大悟)から「志村さんと飲みに行った」等だけ聞いているから、私の中の(日本の人々のと言い換えてもいい)志村像は「酒飲み・女好き・たばこ好き」だけで何十年も更新されていなかったのだろう。
亡くなって初めて、私たちは志村けんが高齢者であったことに気がついた気がする。
志村に「さん」はいらない
話は変わるが、私は志村けんに「さん」をつけたことがない。
この連載は一般人の特権として基本的に芸能人に対して「さん」付けしていないが、志村のそれは若干異なる。
私にとって、志村けんは芸能人ではなかった。
そして大人でもなかった。
子どもにとって、大人は社会の象徴である。
世界は自分たち子どもと、それ以外の大人に分かれている。
子どもにとって大人になること、社会に入ることは、橋を渡って向こう側に行くような乖離感があった。
その中で志村はずっと子ども側にいた。
大人にイタズラをしたり、ヘンな人になって動揺させてみたりすることは、すなわち社会に対してイタズラをしているようなものだったのではないだろうか。
それでいて、子どもには本当は見てはいけないもの(女性のおっぱいとか)をこっそり見せてくれたりする。
どちらも大人(社会)からすると褒められるようなことではない。
だからこそ、子どもから見れば「志村は橋を渡らずにこちらにいる人」だったのである。
事実、私は志村を
「思いも寄らないアイデアで笑わせてくれる2学年上のお兄ちゃん」
「ユーモアがあって頼りがいのあるガキ大将」
「運動会で面白いことをして全員を笑わす先輩」
ぐらいに思っていた節がある。
志村は遊び友達であり、誇れる仲間であった。
その関係は今でも変わらない。
遊び友達にさん付けはしないように、志村けんに「さん」は不要なのである。
最後に
そんなことを考えつつツイッターを眺めていたら、ふとある画像が目に留まった。
これ。
志村けんは現実世界の亀仙人だったのかもなと思ったのだ。
たぶん、みんな亀仙人のことを子ども目線での大人(社会)だとは思っていないし、橋を渡った人だとはあまり思っていない。
昔は天下をとったくらいすごい人とは思えないくらい敷居が低くて、いまはギャルのパンティとか何とかエロいことばっかり言ってるし、「ほんとに亀仙人さまったら!」って若い人に怒られたりしてるけど、今でも本気をだしたら強い。
みんな亀仙人のことが大好きで尊敬している。
だから一大事になるとカメハウスに集まっていたのだろう。
私たちも同じように、土日や正月だと言っては大好きな志村けんの元に集まっていたのかもしれない。
本当に、本当に、幸せな関係だったと思う。
今日もここまでお読みいただいてありがとうございました。
それではまた明日。