照英について考える -ストロングゼロCMから見る、人間性を売るということー 

頑張る 水曜日:芸能世界の考察

どうも、カタカナことカタオカカナです。

いかがお過ごしでしょうか。

カタカナ
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水曜日は芸能世界の考察。

照栄について、日本一考えてる自信がある。

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見ていられない、ストロングゼロのCM

一線を越えてしまったなあ、そう思わざるを得ない。

天海祐希の無駄づかいでおなじみ、ストロングゼロのCMである。

始まった当初から勢い重視のCMであったが、ここにきてついに不快の一線を越えてしまった感がある。

これまで天海祐希のおかげで「勢いのみの安っぽいCM」であったのが、沢村一樹のおかげで「何だかよく分からん安いCM」ぐらいになり、最後に照英が投入されて「騒々しく意味のない安いCM」になったが、それでもぎりぎり不快ラインは超えてこなかった。

 

しかしながら、今回の「はないちもんめ編」において、安さが一気に不快に転じたのである。

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私の個人的感覚が大いに関与しているかと思うが、「何がしてえんだこのCMは」「うるせえCM」と感じる人は多いと思う。

おそらく、好きだと思う人はあまりいないのではないだろうか(ストゼロドライを買おうと思う人はいるかもしれないが)

天海祐希が抜けた途端の変化であるし、天海恐るべしととるべきなのだろうか。

照栄の無駄づかいの方法が間違ってる

照英が投入されてから、このシリーズの安っぽさに拍車がかかっていたが、といって照栄が戦犯ではない。

悪いのはこのCMを作った製作側である。

照栄をはじめ、天海祐希も沢村一樹も製作側の要求に従っただけだ。

 

強いて言うなら、照栄の無駄づかいの方法が間違っているのではなかろうか。

テレビ東京の大食い選手権のMCを任されながら、仕切れば仕切るほど現場からくっきりと浮き上がってしまった男、それが照栄である。

大食いと照栄と聞いた時は、なんて絶妙な組み合わせなのかと膝を打ったもんである。

大食いという一種の馬鹿馬鹿しさが伴う世界と、照英のどうにも中心から半歩ずれている浮世離れした感じがぴったりだと感心したのだが、結果は先述の通りである。

ちなみに今や大食いMCはパンサー向井と高橋みなみがそつなくこなしており、たまーに照英が登場すると大変落ち着かない気持ちになる。

 

また照栄はアメブロをやっていて、ある日のエントリーは金魚の選別について書いているのだが、タグが #照栄#選別 である。

照英『稚魚37日目❗』
選別をしなければ❕

自分の名前は分かるが、選別をタグ付けしてどうする気なのだ。

金魚の選別なのだから#選別をつける。
本人からしたらそれだけのことなのだろうが、ここからも照英の性格をうっすら感じ取っていただけるのではないだろうか。

人間性を売るということ

ストロングゼロ側もきっと照英の「あの人、いい人なんだけど仕事はちょっとねえ~」感に期待してキャスティングしたのではないかと思う。

気持ちは分かる。ああ、気持ちは分かるぞ。
でも違うのだ。同じ間違いをした私だから分かる。

照栄に役割を求めてはいかんのである。

 

何をやらせても本当に頑張って頑張って頑張るのだがどうにも空回りしてしまう不器用さを愛でる、間の抜けた人間性を楽しむ、それが照英の正しい味わい方であり、MCだとかまぬけなサラリーマン役だとか、彼を型にはめるのはNGなのだ。

もし与えるとしてもちょい役まで、前面に押し出してはいかん。

役柄を与えてしまうと、その作品が彼に求めている以上の要素を出してしまうからだ。

 

ストロングゼロCMでいえば、気のいいちょっとまぬけな人ぐらいの要素でいいのに、頑張りすぎて「ただのまぬけ」が前面にでてきてしまっている。

しかもこの「ただのまぬけ」感が演出されたものでなく、照栄本人のパーソナリティに見えるところが恐ろしいところなのだ。本人が悪ふざけしているように見えるのである。

普段から照栄が人間性で世間から認識されているせいであり、技術や芸のイメージがないことに起因するのだろう。

バラエティならそこから不器用さを愛でることもできるかもしれないが、CMのような記号の世界では難しいし、全体のバランスを崩してしまう。

最後に

今回のストロングゼロCMが不快ゾーンに入ってしまったのは、天海祐希が抜けたことで照栄のパートが増えてしまったせいかもしれない。

そのせいで照英の持つまぬけさ、暑苦しさ、馬鹿馬鹿しさ、騒々しさ、愚直さ、素人くささなどがクローズアップされすぎて、CM全体が悪ふざけに見えるのだろう。

となると、やっぱり照栄が戦犯なのか。

 

いやいやいやいや、まぬけさ、暑苦しさ、馬鹿馬鹿しさ、騒々しさ、愚直さ、素人くささ、これ全て照栄の長所でもある。

これらをうまく使える人間がいないだけなのだ。
自分で書いといてなんだが、正直、相当の難題だと思う。

それでも照英はこれからもずっと変わらずに照栄であり続けるだろう。

ずっとずっと頑張り続けて、ずっとずっと空回りして浮き続ける。

それでこそ私の愛する照栄である。

カタカナ
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今日もここまでお読みいただいてありがとうございました。

それではまた明日。