「贅沢品」にまつわるエトセトラ -食べて書いてまた食べる話60ー

ステーキ 火曜日:食べ物の話

どうも、カタカナことカタオカカナです。

いかがお過ごしでしょうか。

カタカナ
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火曜日は50音で綴る食べ物の話。

今回は「ぜ」。

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「ぜ」は贅沢品の「ぜ」

以前にも書いたことがあるのだが、私は一般的に贅沢品と呼ばれる食べ物が苦手である。

寿司、刺身、サーロインステーキ、うなぎ、かに味噌、フォアグラなどなど。

通常だったら、よーし今日はごちそうだー!わー!パパありがとうー!みたいな流れになるであろう食べ物が得意ではないのである。

子どものころなんて焼肉が苦痛で、焼いた肉は一切食べず、サツマイモとにんじんしか食べなかった。脂は甘いのだというが、私には口がねっとりする違和感が先にきてしまう。

 

とはいえ、全部が全部食べられない訳ではない。

例えば刺身。

大阪市のスーパーで売っている刺身は軒並み食べられない。生臭く感じるため、すべて火を通してから食べている。火を通す前提でパックの刺身を買っている人間は私くらいのものだろう。
(骨がないからとても食べやすい)

一方、ちょっとお高めの店で出される刺身ならほぼ問題なく食べることができる。

よく言う「○○は苦手だけど、質のいいものなら食べられる」というやつだ。

程度は色々あるだろうが、人間ひとつくらいはこういった食べ物はあるのではないだろうか。

 

しかしながら、この「○○は苦手だけど、質のいいものなら食べられる」を人に話すと、

うわー、贅沢だねえと返されるのである。

なんなら贅沢品が食べられないこと自体、贅沢だと揶揄されたりするのだ。

贅沢品を食べない=贅沢、とか意味不明なんだが

おかしくはないだろうか。

いやいやいやいやいやいや、どう考えてもおかしいはずだ。

 

贅沢品が食べられないなんて贅沢ってどういう理屈なんだ。

よく考えてみてくれ。

食べてないんだぞ。

 

まず、贅沢品を食す側は味覚が贅沢品を好んでいるではないか。

食べられない側は味覚が贅沢に対応しておらず、おいしいと思えないのだから、この時点で全くもって贅沢ではない。

 

さらにだ。

寿司も霜降りの肉もうなぎもあわびフォアグラも、自分から注文することは全くない。
出されたら食べる、数年に一度出会う程度の淡い付き合いだ。

焼き刺身だって、よっぽどスーパーに商品がないときにしかやらない苦肉の策である。

一方、私を贅沢だの何だの糾弾してくる側は、ことあるごとにお祝いだごほうびだっつって焼肉だの寿司だの食べているのだ。

贅沢母数のケタがちがうではないか。

どう考えても、糾弾側の方が贅沢をしている。

質のいいものしか食べられない=贅沢、も意味不明なんだが

糾弾側からすると、質のいいものしか食べられないという状態も贅沢とのことだが、何を言っているのか分からない。

食べられない側からすると、普通の食材では食べられないのだから、どうしても食べようとすれば質を選択する以外にない。

贅沢したいから選ぶわけではないのだ。

食した感想も、これなら食べられるな、これじゃないと食べられないな、意外とおいしいな止まりになることが多い(まれにすんごくおいしい!となる場合もあるが、S級レア案件である)

 

それに、糾弾側だって、普通の食材と質のいい食材のどちらでも無料で選べると言われたら、確実に後者をとるはずだ。

普段から贅沢品を食しておいて、さらにその上の贅沢品を楽しむ。

これは贅沢ではないのか?

さて、贅沢しているのは誰だ

そもそも贅沢とは、普段よりもグレードの高いものを楽しむことを言うのだろう。

さて、振り返ってみてほしい。

贅沢品が食べられない、質のいい贅沢品しか食べられない。

この状態は本当に贅沢だといえるかどうかを。

 

普段は贅沢品を口にせず、たまに質のいい贅沢品を食す人間と、

普段から贅沢品を楽しみ、時にさらに質のいい贅沢品を食す人間、

どちらがより贅沢なのかを。

 

余談だが、贅沢品を食べられない人間にはひとつ特技がある。

「私、○○苦手なんですけど、このお店の○○はおいしかったです!」

と言うと、店主にとても喜ばれる。

贅沢品を食べられない人間は、こっそりと世界平和に一役買っているのである。

カタカナ
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今日もここまでお読みいただいてありがとうございました。

それではまた明日。