どうも、カタカナことカタオカカナです。
いかがお過ごしでしょうか。
水曜日は芸能世界の考察。
絵音と太宰、似てるけどきっとラストは違うはず。
先週の振り返り
先週に引き続き、「川谷絵音と太宰治は似ている」って話です。
川谷絵音と太宰治は似てると思う -本当は二人とも女なんじゃないかと思う説ー
前回は絵音のリアル女子的作詞はすげえという話でした。
太宰も女心わかり組
今回は太宰の女っぽさの話になっていきます。
太宰の女性目線の小説と言えば「斜陽」ですが、私が取り上げたいのはそちらではありません。
「女生徒」です。
タイトルの小説を含む短編集で、収録されている話すべて女性の第一人称で書かれています。
大正あたりの女性の話なのに、今読んでも共感する部分がとても多いのです。
大切な人に会う日に肌にできものができたら死んでやるとか、お客さんが来たらとことんまで饗応してしまう婦人とか、若くして死ぬ前に自分宛の恋文をかく少女とか、それぞれに共感できる主人公が登場します。
中でもタイトル作の「女生徒」を読んだとき、わたしゃ度肝を抜かれましたね。
思春期の女学生の気持ちの揺れ動きが細かく描写されていて、昔の自分がいるのかと思ったもん。
特に母親に対する気持ち。自分のイライラの原因には母親があるとうっすら気づいてるのよね。
下着に白いバラの刺繍をして身につける高揚感。
大人に対する嫌悪、自分に対する嫌悪、反発しながらも自分があわせなくてはいけないとわかっているところ。
男性にここまで女心(しかも思春期の女子)の気持ちが分かる訳がない、こんな瑞々しく表現できるわけがない、こりゃ太宰治は男の皮をかぶった女に違いないと確信したのです。
ちなみに「女生徒」はかの川端康成も激賞したすばらしい小説です。
よかったら青空文庫で読んでみてね!(唐突なミニマリスト感)
二人の共通点とは
どうにも男性と思えない川谷絵音と太宰の世界、二人がこうなった共通点は・・・と考えてもよくわかりませんでした(コラ)。年の離れた姉がいた影響は大きいと思われます。はい。
逆に名を成した後の方が共通点が多いなあと。
どっちも女で一悶着起こしてるとこね。
絵音はベッキーから始まってほのかりんやらなんやら、太宰はくっついたり別れたり子ども認知したりで、その一生にずっと女の影があったじゃないですか。
どっちもねえ、女心が分かりすぎるから必要以上にモテるんだと思うんですよ。
人間失格の中で「女が泣いているときはとりあえず甘いものを渡せばいい」とか書いてましたが、読んだ私も「確かに一理あるな!」と思ったし。
もともとの才能があるからモテるってのももちろんありますけども。卵が先かニワトリが先かみたいな話になっちゃうますが、2要素がお互いを補填しあって絡みあって、絵音と太宰を形成している気がしてなりません。
女の心の動きを巧みに表現して芸術に昇華させる一方、同じ女関係で騒動を巻き起こす。
しみじみ、天才ってのはこういうもんかと思ってしまうわ・・・
最後に
川谷絵音と太宰治が似てる似てると書いてきましたが、ラストシーンは確実に違うものになることでしょう。
ご存知、太宰の最後は玉川上水で入水ですが、絵音がそうなるはずがありません。
なんたって「レッツポジティブ!」なんですから。
ベッキーとの件で世間から叩かれまくっているときにレッツポジティブとか言っちゃったり、文春との一件も自分の曲としておもしろおかしく表現しちゃうあたり、絵音のポジティブ性のハンパなさを感じます。
同じように女心を巧みに表現する芸術家であっても、本人の精神性で表現が間逆になるんですねえ。
人間の面白さを感じます。
これからも絵音には「やっぱりこの人は女なんじゃなかろうか?」と疑問を抱かせるような曲をばんばん書いていってほしいものです。
女で失敗して糧にして表現して、叩かれてもまた才能でのし上がって、また女で失敗して、でもまた次の作品の糧にして、また女で失敗して。
レッツポジティブで太宰エンドを回避して、人生まるごとエンターテイメントな大団円を希望しています。期待してるぜ絵音。
今日もここまでお読みいただいてありがとうございました。
それではまた明日。