どうも、片岡カタカナです。
いかがお過ごしでしょうか。
月曜日はミニマリズムの話。
「生き形見分け」がめっちゃ魅力的。
妹尾河童さんの「生き形見分け」
少年Hで有名な妹尾河童さんのエッセイ「河童のスケッチブック」を読んでいたら、ちょっと面白い話を見つけました。
河童さんは形見分けならぬ「生き形見分け」をしているというのです。
自分の気に入ったモノなら古今東西、西洋問わず何でも収集して家の中に溢れかえっていると有名な方です。
収集品でモノが溢れている人というのは珍しくないですが、河童さんがちょっと違うのは、家の中にあるモノにそれを欲しがっている友人の名前が書いてあるんだそう。
形見分けは死後に親族や友人に分け与えることですが、死後ではなく、今それを欲しがっている人に渡せれば、より明快になると考えてのことだそうです。
だから河童さんが何か手に入れたと知ると、友人が家にやってきて、それをひっくり返して底の部分を確認したりする、誰かの名前が書いてあっても第二登録者として名前を書き記していく猛者もいて。
河童さん的には、
金も物も持って死ねないのだから、いまは全部借りているんだと思うと、なんとなく愉快になる。
欲しい物を手に入れ色々所有しているくせに、「無一文」という感じになれるのがいい。
と面白がっているご様子でした。
売らずに譲り渡せるということ
これを読んだ時、私、目から鱗が落ちた気がしました。
なるほどと。
私は常々、モノを持たないように持たないようにと考えてきたんですよ。
でも好きなモノを持った上で何も持たない状態になれる方法があるだなんて、コロンブスの卵的発想というか、盲点だったなと感心しきりです。
何にここまで心を掴まれたかというとですね、売るんじゃなく、欲しがっている人に譲り渡すことができる点なんですよ。
今はメルカリ等で持ち物を売るのが一般的になったこともあって、
的な価値観が広がってきました。
それに全く文句はないのですけど、ただ、手元にやってきたモノがちょっとかわいそうだなあと感じておりました。
きっとね、モノはワクワクドキドキしながら我が家の敷居をまたぐと思うんですよ。
これからどんな楽しい生活が始まるんだろうと。
なのに始まる前から「お前はいずれ売られる身なんだよ・・・」と言い渡されるの嫌じゃないかなあと。自分が言われたらやだし。
モノを買う限りは、自分の家の養子にするくらいの気持ちで買いたいんすよ、私は。
自分の手元で使い切って見送る覚悟でいたい。
さらに個人的に「不用品はゼロ円」という考え方も持っています。
いらないモノなんだからお代は不要、使ってくださるならタダでお渡ししますの精神。
だから、売る前提でモノを買うこと対して、どうしても抵抗があるんですよね・・・・。
(割り切れる人すごいと思う。大人や)
最後に
その点、河童さんの「生き形見分け」なら、自分の子として可愛がった後、自分がいなくなったと同時に次の人に渡せるんですよね。
遺族には少し迷惑をかけるかもしれないけど、私がいなくなった後、この子たちはどうなるのかしら・・・と心配しなくて済みますよね。
欲しがっている人のところに行くのだから、きっと次の人生(モノのね)も幸せに過ごせるだろうし。バトンが自然につながっていくなーと。
河童さんも
欲しがる人は所有することが、物に生命を吹き込むことになるし、それがつづくと永遠の持続性を持って生きつづけることにもなるわけだ。
と書き記していらっしゃいます。
モノの命をつなぐだけでなく、カタカナっつー人間がいたってことも、時折思い出してもらえるかもしれない(積極的には思い出さないでほしいけど)
我が家に来た人にも、欲しいモノがあれば名前を書いてもらいたいなあ。
私も生き形見分けをしたい。
でも家に誰も来ないんだよなあ(別問題)
もし、このブログをお読みいただいた方で、そういえば紹介してたあれがほしいなあと思うモノがありましたら、ぜひご連絡ください。
底にお名前書かせていただきます。
今日もここまでお読みいただいてありがとうございました。
それではまた明日。